
2024年9刷 文庫判 P308 P37〜62上角薄く折れ跡
“写真にとって表現とは何か、記録とは何か。1960年代後半から70年代にかけて、ラディカルな思考と実践を貫きながら激動の時代を駆け抜けた写真家が、自身の作品と方法の徹底的な総括を通して、来るべき時代の表現を模索する写真+映像論集。写真は「事物が事物であることを明確化することだけで成立する」ものでなければならないとし、〈ブレ・ボケ〉との訣別を宣言する表題作「なぜ、植物図鑑か」ほか、メディア社会における〈芸術と政治〉への先験的考察は、今も伝説的に語り継がれる。原著刊行から30 年余を経て待望の文庫化。”(カバー裏紹介文)
目次:
なぜ、植物図鑑か
【第一章 たえざる視覚の収奪】
記録という幻影 ―ドキュメントからモニュメントへ
グラフィズム幻想論
現代芸術の疲弊 ―第七回パリ青年ビエンナーレに参加して
写真、一日限りのアクチュアリティ
【第二章 日付、場所、行為】
カメラはペシミズムを背負って 1967.6 ミケランジェロ・アントニオーニ監督『欲望』
素朴な記録への回帰を 1968.6 D・D・ダンカン撮影のヴェトナム戦争報道写真
美学の崩壊 1968.7 《写真一〇〇年 ―日本人による写真表現の歴史》展
写真は言葉を蘇生しうるか 1968.9 《(Concerned Photographer》展、《世界の偉大な写真家たち》ほか
ドキュメンタリー映画の今日的課題 1970.1 土本典昭監督『パルチザン前史』、小川紳介監督『圧殺の森』
写真は言葉を挑発しえたか 1970.3 写真同人誌 『プロヴォーク』
写真の価値を決めるもの 1970.3 ソンミ虐殺事件報道写真
カメラは現実を盗みとれるか 1970.4 ミケランジェロ・アントニオーニ監督『砂丘』
現実の工作者としてのテレビカメラ 1970.6 シージャック犯川藤展久射殺事件TV中継
血ではなく、赤い絵の具です 1970.7 ジャン=リュック・ゴダール監督 『ウィークエンド』『中国女』
作品は現実の一部である 1970.8 ジャン=リュック・ゴダール監督『東風』その一
作品の背後になんかゴダールはいるはずもない 1970.9 ジャン=リュック・ゴダール監督『東風」その二
不可避的な身ぶりとしての映画 1970.10 A・ヴァルダ監督『幸福』、G・ローシャ監督『黒い神と白い悪魔』
映像の党派性の確立は可能か 1970.11 ジャン=リュック・ゴダール監督『イタリアにおける闘争』
あらんとするものをあらしめる 1970.11 吉田喜重、ゴダール、川藤展久射殺事件TV中継
詭弁の迷路 1971.5 第一〇回現代日本美術展
日付と場所からの発想 1971.7 ジャーナリズム、全共闘、表現
制度としての視角からの逸脱は可能か 1972.2 アーサー・ペン監督『俺たちに明日はない』
表現は常に危機的である 1972.5 白川義員=マッド・アマノ著作権侵害問題
虚構の祭典・虚構の肉体 1972.7 篠田正浩総監督『札幌オリンピック』
フェリーニのローマ 1972.9 フェデリコ・フェリーニ監督『フェリーニのローマ』
コロラド渓谷を梱包する 1972.10 ヤバチェフ・クリスト「渓谷のカーテン」計画
芝居を「見る」ということ 1972.11 佐藤信作・演出『二月とキネマ』
【第三章 今日、見るとはなにか】
何をいまさらジャズなのか ―場論序説
アフリカから帰る
舞台の上、スクリーンの上の裸の直接性を
アジテイションとしての映画は可能か
複製時代の「表現」とはなにか ―「マッド・アマノ=白川義員裁判」をめぐって
ディスカバー・ジャパン ―とらわれの旅の意味について
いづれにせよ考えさせられる問題です ―報道における日本的なるもの
あとがき
解説 断定の倫理(八角聡仁)