1988年 A5判 P304 カバースレ、端破れ、イタミ、背および端ヤケ 小口および両見返しヤケ
エドモン・ジャベスによる実験的な7部作の第1部。(⇒第2部『
ユーケルの書』/⇒第3部『
書物への回帰』)
書物と言葉をめぐる形而上学的な対話、ユダヤ教のラビを模した架空の問答や注釈やアフォリズム……、さまざまな形式による散文詩のような文章が断片的に綴られるなかに、一組の男女、ユーケルとサラの遍歴の物語が立ち現れる。
“砂漠から書物へ
砂漠とは埃にまみれた空虚です。世界の耐えがたい不在のうちに、ただ空虚だけが自らの現存を保っている、もはや空虚としてではなく空と砂の呼吸作用として。(E・J)
砂漠の書物とは砂である。《狂気の砂》、尽きるところのない、無数の、虚しい、砂。(J・D)”(宣伝文)
“《私は書物のなかに存在する。書物とは、わが世界、わが祖国、わが家、そしてわが謎である。書物とは、わが呼吸でありわが安息である。》
私はめくられるページとともに起き、記されるページとともに横たわる。
《私はそれですみかを築くことばの一族に属している》、と答えることができること。
この答えがさらにひとつの問いであり、このすみかは絶えず脅威にさらされていることをはっきりと知りつつも。
私は書物をよびさまし、問いを挑発するだろう……
書物は書物を増殖させる。”(カバー袖紹介文)
“《自分自身との不一致のなかで、彼はユダヤ人よりも多くユダヤ的であり、少なくユダヤ的である。しかしユダヤ人の自分自身との一致はおそらく存在しないだろう。
ユダヤ人とはこの自己になることの不可能性の別名であろう。ユダヤ人は引き裂かれている。
まず、寓意と文字性という二つの文字の領域に引き裂かれている。……
文字通りの事件のあまりにも生き生きした肉と概念の冷たい皮膚のあいだを意味が走り抜ける。すべては本のなかで過ぎて(生起して)ゆく。》(デリダ)
ユダヤ人として自ら流謫の身を余儀なくされ、《書くこと》の根源的体験を巡る困難な営みを通じて、ブランショとともに、 レヴィナスとともに、わたしたちに《砂漠の思考》の可能性を、そしてもう一度《不可能な共同体》の問題を提示する著者の代表作。”(カバー裏側袖紹介文)
目次:
献辞
書物の閾に
かくて汝は書物の中に存在するだろう
不在なるものの書
第一部
第二部
第三部
生けるものの書
第一部
第二部
訳者あとがき