昭和49年再版 A5判 P136 裸本 表紙クスミ、背ヤケ 小口時代シミ
“本書はアメリカ在スエデンボルグ財団発行の標準版「四つの教義」(The Four Doctrines)中の「主にかゝわる新しいエルサレムの教義」(The Doctorine of The New Jerusalem Cocerning The Lord)の翻訳であるが、他にロッチ版の同書も参照して、その訳によった所も若干ある。原著はDoctrina Novae Hierosolymae de Dominoと題され、一七六二年、著者の七四才の折、アムステルダムで出版された。”(訳者序より)
目次:
訳者序 附記「主イエスの人格とその贖罪についての一私見」
一 聖書全体は主を取扱っており、主は聖言であられる。
二 主は律法の凡ゆる物を成就されたと言われていることは、主は聖言の凡ゆる物を成就されたことを意味している
三 主は諸々の地獄を征服し、その人間性を栄化するために世に来られた。十字架の受難は最後の闘争であって、これにより主は地獄を完全に征服され、その人間性を完全に栄化された。
四 十字架の受難により主は罪をとり去られたのではなく、それを負われたのである。
五 主の航跡の転嫁は悔改めた後罪を赦されること以外のの何ものでもない。
六 主はその神的な人間的なもの〔神的人間性〕の方面では神の子と呼ばれ、聖言の方面では人の子と呼ばれたもうている。
七 主は御自身の中に在った神的なもの〔神性〕からその人間的なもの〔人間性〕を神的なものとされ、かくて父と一つのものとなられた。
八 主は神御自身であられ、聖言は主から発し、また主を取扱っている。
九 神は一人であられ、主がその神であられる
一〇 精霊は主から発生する神的なものであり、それは主御自身である。
一一 アタナシウス信条の教義は、もし三人格の三一性が理解され、そしてこの三一性は主の中に在るならば、真理に合致する。
一二 (黙示録に述べられている)『新しいエルサレム』により新しい教会が意味されている。
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